蓮如上人、石山御坊を建てた頃の大阪は、戦乱で荒れ果て、人々は離散していました。そんな大阪を、蓮如上人はなぜ拠点としたのでしょうか?

それは、大阪が水陸交通の要衝であり、布教活動に最適な場所であったこと。そして、大阪城の周辺は自然の要害に恵まれた土地であったこと。蓮如上人の慧眼が、後の大阪発展の礎を築いたのです。もし蓮如上人が大阪を選んでいなかったら、石山本願寺や豊臣秀吉の大坂城築城はあったでしょうか? 歴史に「もし」はないですが、蓮如上人はまさに大阪発展の救世主だったと言えるかもしれません。

石山御坊建設時、地中から大きな石が出てきたことから「石山」と呼ばれるようになったという伝説も残っています。大江の岸から上町台地に至る坂道「大江の坂」は、今もその歴史を物語っています。

豊臣時代には城下町の基礎が築かれ、徳川時代には急速な発展を遂げました。寛永のはじめ頃には町の骨格がほぼ完成し、「大坂」は天下の台所と呼ばれる繁栄を極めました。幕府の大阪重視政策も、この発展を後押ししました。

豊臣秀吉もまた、大阪の戦略的重要性を見抜いていました。近畿の中心に位置し、京都にも近く交通の便が良いこと、そして自然の要害であること。さらに天王寺、住吉、堺、平野といった町々も近くに控えており、これらの町々を城下町に組み込むことで、大坂城は全国統一の拠点としてふさわしい場所だったのです。

秀吉は石山本願寺の旧地を利用して大坂城の築城を開始し、天正十一年(1583)十一月より工事が始まりました。本願寺が織田信長を苦しめたのも、その地の地の利の良さゆえでした。 大坂城がほぼ完成したのは天正の末年。 城内は海からも容易に援助を得ることができたため、秀吉はついに天下統一を果たしました。

このように、蓮如上人の布教活動から始まった大阪の歴史は、豊臣秀吉による大坂城築城へと繋がり、現代の大阪の繁栄へと繋がっています。 飲酒運転は危険です。安全で快適な移動には、弊社の運転代行サービスをご利用ください。